豊岡市・京丹後市・朝来市・田村ピアノ・リトミック教室 講師紹介

◆小山 きく江(リトミックコース)

 

 『出会い』

福井県小浜市で3人兄弟の末っ子として生まれる。兄2人だったので、年の近い従姉妹の家で遊ぶのが好きでした。

 従姉妹とピアノの先生ごっこをして教えてもらうようになったのが、ピアノとの出会い。

 遊びを通して体験した楽しさから、ピアノが大好きになり続けられたと思います。

 

 短大での恩師との出会い。声楽やフルートも学び、楽器店講師の頃にも 月1回通っていたのが楽しい思い出。一昨年は恩師と京都へ小旅行。今でも気にかけて頂き感謝感謝です。またいつの日か同じステージに立てる日を夢見て…。

 

 子育てする中、ピアノ講師の経験を活かして 子ども達をもっと笑顔に出来る仕事がしたい…そう思い始めて出会ったリトミック。何より自分自身が楽しくて、どんどんリトミックが好きになりました。

姫路第1期生として 早15年。進化し続ける師匠と、一緒に学ぶ先生方のおかげで今があります。リトミックを通して 育ちの援助が出来るよう 常に新しい情報を提供出来るよう、これからも学び続けたいと思っています。

 『絵本』

小さい頃はあまり読まなかった絵本。

子育て中、絵本のおすすめベスト100のガイドを持ち図書館通いの日々。子供達と一緒に絵本の世界を楽しみ、絵本大好きになりました。

小学校やブックスタートでの読み聞かせはいい経験でした。

今年11年目となる子育てひろばアドバイザーとしても、リトミックに絵本をたくさん取り入れて 紹介しています。

 

 『憧れ』

子供達が小さい頃によく行ったディズニーランド。パレードがお気に入り。

世界中のディズニーパークでパレードを見てみたいです。

香港では雨で中止になってしまって残念でした。

見ているだけで楽しく近くにいるだけで嬉しくなるキャラクター達が憧れです。

そんな夢の国のような 楽しい空間でレッスン出来るように心掛けています。

 

 『日課』

 リトミックでは、子供達の笑顔に元気をもらっています。

長く子供達と関われるように、スクワット 腹筋 背筋を日課として頑張ってます。

 

『実績』

娘2人の母で、子育て歴は23年。

リトミック講師歴は2019年で12年目。

子育てアドバイザー11年目。

ピアノ指導歴は、30年以上。

常に子どもの目線でレッスンを行い、子どもが心を開くことこそ真の学びがあると考えます。

 

◆黒田桃子(ピアノコース 初心者・一般コース)

 

☆プロフィール

豊岡教育音楽学院講師の黒田桃子です。

大阪音楽大学短期大学部ピアノ専攻を卒業後、市内の楽器店に13年勤め、結婚、出産を機に退職。

子育てが落ち着いたので、昨年10月より

恩師である田村晃子先生の元でスキルアップを目指すべく、学院講師としてお世話になっています。

 

☆生い立ち

生まれも育ちも出石

父、母、妹、私の4人家族で育ちました。

 

小さい頃の私は、人見知りがなくて誰とでもすぐ仲良くなれ、割と人前で何かするのが

好きな女の子でした。

可愛い名前をつけてもらったのに、性格は

男勝りで気が強く、よく男の子とケンカも

していました。

 

☆ピアノを始めたきっかけ

左利き家系に生まれ、姉妹でも私だけが左利き。

母が無理強いして右手に直さずに、両利きになれるようにと1年生の時にピアノを勧めてくれました。

「勉強机とピアノ、どっちが欲しい?」

私はすかさずピアノ!(笑)

私の家にピアノがやって来る!

オルガンでドレミも分からなくて弾いていた私にとっては、本当に嬉しい出来事でした。

 

☆ピアノの先生は男の先生

私が習いに行くピアノ教室の清水先生は、

なんと男の先生!

ピアノの先生=女の先生だと思っていたので、男の人でもピアノの先生っているんだ!とビックリしたのを今のでも覚えています。

とてもお若く見えましたが実はすでに

60代だったと思います。

清水先生はとてもマメな方で、レッスンノートにはその日の内容をびっしりとお便りノートに書き、上手に弾けた時には、「たいへん、たいへんよくお稽古できました」と書いてくれる。たいへんの数が多い程、上手く弾け褒められている証拠なのです。

また、自分が教室でどのくらい頑張っているかを分かるように、進度を級別や表グラフにしたりして生徒みんなで競わせるのが上手な先生でした。負けず嫌いな私は、まんまと

先生の作戦に引っかかり、誰よりも一番先に早く次のテキストに進みたい、先生から

いっぱい「たいへん」をもらって褒められたい思いの一心で、毎日練習に励みました。

その甲斐あって、先生には「桃ちゃんは天才や!こりゃ東京芸大に行けるぞー!」と

いつも褒めてもらえました。

東京芸大って?音楽を勉強するところ?

そうか、私はピアノのプロになれるかもしれないのか!褒められて伸びるタイプの私は、先生の褒め言葉を信じて、音大に行って

たくさんピアノを勉強してピアニストになりたいと思うようになりました。

そして小学校の卒業式では「色々なジャンルの曲が弾けるピアニストになりたいです」と宣言していました。

 

☆夢を叶えるためにはどうしたらいい?

中学生の進路と向き合う時期の頃に

担任の先生に「音大に行きたいのですがどうしたら良いですか?」と尋ねたところ、

「音大なんて鍵盤にカミソリを入れて蹴落としていくような世界だ、桃ちゃんには合わない世界だと思うで」と言われてビックリしました。

音楽の先生にも相談してみましたが、やはり私が中途半端に興味があって音大に行きたいと言っていると思っています。

今なら解ります、音大に行くのがどれだけ

大変だったかという事を。

しかし、夢が叶うにはどうしたらよいのか

これだけ悩んでいるのに 真剣に聞いてくれる

大人がいない事に子供ながらにショックでした。

 

☆自分で調べる!

もう誰も真剣に相手にしてくれないと分かると、自分で調べるしかないと思い立ち

音大とはどういう所なのか?どの辺りにあるのか?何を勉強したら良いのか?

自分が目指すべき音大がどこなのか、まだ

ネットの普及も少ない中、自分なりに情報をかき集めていました。

そんな中、もし両親に音大に行く事を反対されてもちゃんと説得が出来るようにと、私なりに調べぬいたのが、近畿圏内で寮があって2年生も4年生もある音大が大阪音楽大学だったのです。

そうやって、行きたい音大も自分で探し出しました。

 

☆清水先生に相談

両親には、私の熱意が伝わったのか、音大に行く事はすんなりと賛成してもらえました。

1番私の気持ちを理解してくれたのは両親でした。

じゃあ夢を叶えてくれる人は誰なのか?

先生を変えた方がいいのか?

清水先生は 私の第1志望の音大にツテはないが、やはり相談はした方が良いのではないか?

両親と話し合い、最終的に清水先生に行きたい音大があると相談しました。

先生は、私がいつ音大に行きたいと言ってくれるのか待っていたと言って下さいました。

「桃ちゃんの行きたい音大とは違うが、今、

大阪芸大に通っている女の子を知っているから、その子のツテを頼ろう」と動き出してくれたのです。

 

☆ついに夢の第一歩!

清水先生のツテのおかげで、芸大の先生を

紹介してもらえ、月に1回大阪までレッスンに通えるようになりました。

「やっとピアノが本格的に学べるんだ♪」

夢が現実になると思うと、私の胸は高鳴りました。

 

☆夢の第一歩を踏み出したと思った矢先に

私が進路の事が全く分からないのと同じように、両親も覚悟はあったものの、子供を進学させるのにいくらかかるのか…など現実を知りませんでした。

紹介してもらったお姉さんのお家の方に学費などを伺ったところ、私立で芸術系の4年となるとかなりの高額な学費がかかるそうです。しかも生活費も必要です。

両親には「申し訳ないけれど、妹も進学させてやりたいから、桃ちゃんだけを大学に行かせてやるのは難しい。短大なら何とか行かせてあげられるし、大阪へレッスンには通ったら良いから紹介してもらった芸大は諦めて欲しい」と言われてしまったのです。

中途半端な格好で、芸大の先生のレッスンに通っても良いのか?

またもや、私の音大への道は閉ざされてしまいそうでした。

 

☆何とか回避

芸大の先生には事情を説明し、先生が大阪音大出身の方だったからでしょうか、すんなりと事情を受け入れてもらえて、大阪音大の短期大学部のピアノ専攻に受かるようにと

レッスンしてもらえる事になりました。

ホッとしたのもつかの間…。

 

☆急性肝炎で入院

高校2年生の冬に、急性肝炎になり1ヶ月の入院生活です。もちろんピアノの練習は出来ません。退院してからも、大阪までレッスンに通えるような練習量と体力がなく、

しばらくの間はレッスンに通えませんでした。

 

☆受験生本番を控えて

ちゃんと大阪へレッスンに通えるようになったのは、高校3年生の6月頃だったでしょうか?もう受験生です。

大阪音大の講習会に幾度と参加して、本学の

先生のレッスンも受けてみたりと、自分なりに志望校に近づけるように努力してみましたが、入院生活が尾を引いていたのか 受かるにはまだまだ厳しいねと言われてしまったのです。

 

☆いよいよ推薦入試が近づく

実は私のレッスン指導は、芸大の先生の

月1回のレッスンだけ。

地元の清水先生は、大学の先生につけば

大丈夫という考えで、もうレッスンには

口を出さないようになってしまいました。

推薦入試では、第2志望の学科には合格したものの、第1志望の学科には合格出来ませんでした。

 

☆もう後がない(>_<)

どうしても第1志望の学科に受かりたい。

でも、一般入試まであと2ヶ月もない。

大阪の先生の所へ毎週もレッスンに通えない。

どうしようか悩んでいた矢先に

父が「豊岡に田村晃子さんという、まだ若い方だけど良い先生がいるらしいで」と言うのです。

父は飲食店を経営していて、そこにお客さんとして来ていた時にピアノの話をしたというです。

もう一般入試まで時間がないからと、藁をもすがる思いで、田村先生に連絡を取りました。

その先生が、のちに恩師となる学院を立ち上げた田村晃子先生なのです。

 

☆運命の先生に出会う!

田村先生に連絡すると快く承諾して頂け、

翌日には田村先生の元へ向かいました。

初めましての挨拶もないくらいの勢いで、

すぐにレッスンが始まったのを今でもハッキリと覚えています。

初めてのレッスンだったにもかかわらず

田村先生が一分一秒たりともムダにせず、

とても熱心に指導して下さるのが伝わりました。30分のレッスンがあっという間に感じました。

芸大の先生に付き、また講習会で色々な音大の先生にレッスンを受ける機会がありましたが、こんなにも分かりやすくて興味深いレッスンを受けたのは生まれて初めてでした。

推理小説を読み解いていくような感覚で、

曲を分析していく過程がとても楽しいのです。

曲が色づいていくのがしっかりと分かるのです。

こんなにも近くに素晴らしい先生がいたのです。

田村先生のおかげで短期間で上達し、

第1志望に合格する事が出来ました。

田村先生も心から喜んで下さいました。

田村先生の「絶対に生徒の気持ちを信じる」という真剣な眼差しを自分が感じたから

こそ、私もピアノ講師になった今、生徒にはそうでありたいと強く思っています。

 

☆伊藤 勝先生

大阪音大では、入学する際に師事したい先生を自分で決める事が出来ます。

どの先生が良いかのか全く分かりませんでしたが、中学、高校でお世話になった音楽の先生のツテで、「出来れば男の先生が良い」という条件をつけたにもかかわらず、なんと探し出してくれました。

「伊藤 勝先生というとても良い男の先生がいるらしい。絶対に師事できるかは分からないが、伊藤先生の名前を書いてみなさい」

大阪音大に入学し、伊藤先生の門下生になれたのが分かった時には、ホッとしました。

 

☆音大でも運命の先生に出会えた!

大学の初日のレッスンで伊藤先生に会った時、なぜ僕を指名したのか?と尋ねられました。経緯を説明したところ「これも何かの縁や、君は下宿していて家族と離れているから、僕をお父さんだと思って頼ってくれたらいい」と言って下さいました。

その言葉に感激して、涙と何故か鼻血が出てしまい、大事な楽譜が血だらけになってしまいました。

 

☆伊藤先生は哲学者

伊藤先生は、いつも私を気遣って下さり、

私も先生を信じて、新しく出来た人間関係で色々と感じている事を相談した時の事です。

「ピアノっていう楽器はな、良く考えて音を出さないといけないんや。pにfと様々な音の出し方があるやろ?人の発する言葉も同じ。良く考えて言葉を紡ぐんや」と。

伊藤先生のレッスンはピアノ技術を教えて頂くだけでなく、人間としてどうあるべきか?と常に考えさせられる高貴なレッスンでした。結果、余計なモノが削ぎ落とされる真実の音を追求するレッスンだったと思います。

とてもレベルが高くて、伊藤先生が見えている景色の音まで辿り着く事はなかなか出来ませんでしたが、出石へ帰ったら田村先生のレッスンを受け、曲をしっかり分析してから

伊藤先生のレッスンを受けると、伊藤先生から「あれはホンマに良い演奏だったなぁ」とお褒めの言葉を頂けたのです。

 

☆充実した短大生活

音大では友達にも恵まれ、みんなで一緒に

なって練習に励みました。

2年間で学生生活は終わってしまうけれど、

田村先生と伊藤先生の2人の運命の先生に出会えたのだから、卒業してもレッスンには通い続けて ずっとピアノを勉強していこう。

そう心に決めて地元に戻りました。

ピアノ講師の仕事と両立しながら、1年に

1回は演奏会に出演を目標に、結婚するまで田村先生と伊藤先生の元で学びました。

 

☆人間の基本は1対1

様々な先生との出会いやピアノを深く勉強するたびに、小さい頃に描いていたピアニストの夢が中学校の音楽の先生へ、最終的には

ピアノ講師になりたいと変化し始めました。

音大で受けたある授業の中で、先生が言うのです。

「人間というのは1対1の付き合いが基本で、このたくさんの人数で授業を受けている空間は異様なんだぞ」と。

その言葉を聞いた時に、田村先生や

伊藤先生が熱心に指導して私にたくさんの愛情を注ぎ混んでくれたように、私も1人の生徒の事を想ってピアノと関わりの持った仕事がしたいという思いがフツフツと湧き出し、

私の夢はピアノ講師になる事だと夢がカタチを変えていきました。

 

☆ピアノ講師は天職

私はピアノ講師の仕事がとても好きです。

好きな事が仕事になるなんて、本当に幸せ者だなぁと思っています。

ピアノを生徒に教えている時、私の人格は

お世話になった先生方になっています。

ある時は清水先生に、ある時は田村先生に、

そしてある時は伊藤先生に。

先生方が乗り移っているのです(笑)

それだけ、ピアノを通じてたくさんの知識と技術と愛情を頂きました。

そして、私も生徒に同じように与えたいと思うのです。

 

☆我が子にもピアノを

私には2人の男の子がいます。

ピアノから人生を学んだ私は、子育ても

ピアノを通して我が子に伝えたいという思いから、子供達も本学院で田村先生にお世話になっています。

ありがたいことに良く頑張ってくれていて

ピティナやベートーベンコンクール、

ショパコンと私に様々な景色を見せてくれるまでに成長してくれました。

もちろん、我が子のピアノ練習を注意しようものなら「お母さんに怒られてる」とケンカになってしまいますが(笑)

今は我が子に憎まれてもいい、いつか子供らがピアノを習っていて良かったと思える日が来るのを信じて、一緒にピアノを勉強しています。

 

☆本学院講師として

私はこの学院のOGとして、我が子をピアノ教室に通わせている保護者として、また講師として、3つの側面の柱から、これから本学院でレッスンを学びたいお子様や保護者さまをサポートしていきたいと思っています。

先生を選ぶ事はとても大切です。

出会う先生によって お子様の人生は変わります。

共に過ごす30分間が、お子様にとって

“幸せな時間”となるような人生の実りある

レッスンにする事が私のモットーです

 

 

◆森垣 香子(英語deピアノコース)

 

【子どもの頃】

いたずら好きで、お友達とレッスンに行ってうれしくて、よくはしゃいでいた。

教室を走りまわり、とうとう先生のカミナリが……ドカ~ン !  以後おとなしくしていた。

ピアノ、習字、そろばん、英語など習っていたが、親が特に教育熱心というわけでもなく、3人兄弟の末っ子で「あ、家にいたの」っという感じの存在感だったかも。

好奇心旺盛でエジプトのピラミッドや古代遺跡など、歴史ものが大好き。

またよく美術館に連れていってもらい、ロダン、ゴッホ、ピカソ、ミレーに圧倒されてその場に立ちすくんだ。

「ゲイジュツってなんだろう?」お子ちゃまながら思いをめぐらせていた。

今思うと、身の回りにいろんな本がたくさんあり、クラシック音楽が流れ、美術館で本物にふれたり、いろんなものに目を開いていく環境に恵まれていたんだなあ、と。

練習は苦ではなかったが、自分の音がどうも好きになれなくて、コンクールで賞をもらってもあまりうれしくない。ただ、つらい時の心の支えとなってくれたのも音楽だったので、向いているかどうかわからないが、音楽の道に進みたいという漠然とした思いはあった。

【多感な思春期】

書店で、ある一冊の本が目にとまった。へルマン・ヘッセの「知と愛」だった。

女性遍歴を重ね、さまよう美少年が真の自己を発見していく。

10代の女の子にはちょっと刺激の強い内容もあったが、ドイツの美しい自然と風土、素朴な国民性、ものの考え方に強く惹かれた。

それからドイツ文学に夢中になってしまい、机に向かって勉強しているふりをしつつ、ヘッセ、ゲーテ、トーマス・マンなど片っぱしから読みあさった。

【ドイツへ】

音大を卒業し、さらに2年間大学に残り、レスナーをしながら幼い頃からの憧れの国、ドイツへの留学に向けて東京へレッスンに通った。

ドイツ語はもともと好きだったので、手紙も願書も全て自分で書いた。

実力もない私の無謀なチャレンジに対して、温かく背中を押して頂いた竹内京子先生には頭が下がる思いだ。たいていは事前にドイツでつきたい先生にレッスンを受けるのだが、入試の直前に行って受けていなかった私は、ダメかな~と思っていた。

でも試験前に演奏を聴いて頂いた時、「音楽的だ。」とのお言葉に勇気を頂いた。

本番では1時間ほどのプログラムからその場で3曲、これ弾いて、と指定された。

なぜか試験官の先生はみんなニコニコ顔、カチカチの緊張が少しほぐされ、無事入学することができた。

【デトモルトの生活】

デトモルトはドイツ北西にあり、かつてブラームスが住んでいた美しい街で自然が豊か、田舎育ちの自分にはピッタリだった。大学は伝統が古く国際色豊か、教授陣も学生もドイツ人以外が圧倒的に多く、外国人だらけ。聞いたこともない国からきた学生もいて、ざっと50か国以上はいたような。

ピアノ科のある大学の本館は、18世紀に建てられたイタリア・バロック様式の宮殿で、広大な庭園に囲まれ、ピアノは全てスタインウェイというこの上ない環境だった。

アジア食料品店もあり、お米や調味料、オランダのちょっと酸っぱいお豆腐など、日本食モドキも手に入り、ホームシックもあまり感じなかった。

【暗中模索の日々】

師事したスペイン人の先生は、めんどうみのよいお父ちゃん的存在だった。

けれども、技術的にも問題が多く、はじめに音の出し方、奏法を変えなければならなかった。指が回るための技術ではなく、作品に合った美しい音色を出すための技術。

チェルニー、ブラームスの練習曲など、ゆっくり1からのやり直し。

自分のやりたい曲がいっこうに弾けない日々。

「今までやってきたことは何だったんだろう?何のためにドイツに来たのかな?」

だんだん音を出すのがつらくなり、精神的にも追い込まれていった。

とうとう日本で師事していた渡邉康雄先生にFAXで胸の内をぶつけた。

その時に頂いた励ましのありがたかったこと。

また、誰もいない大学の鍵を開けて祝日までレッスンし、忍耐強く卒業まで導いて下さったラシュエラス先生には、今も感謝の気持ちでいっぱいだ。

【教える立場】

音楽の道に終わりはなく、模索は現在進行形だ。

でも暗中ではなく希望のある模索になってきたのは、今まで出会った先生方、友人たち、そして現在ついている先生の教えのおかげ。

だからこそ、教える立場となった今、生徒がつらい時、苦しい時に寄り添い、支えられる存在でありたい。

第一線を退いたイチローさんの言葉、「外国人になったことで人の心を慮ったり、人の痛みを想像したり、今までになかった自分が現れた…」

さて自分はそのようなことが、少しでも出来ているのだろうか?

肝に銘じ、努力していきたい。

【語学を通じて】

ドイツではいろんな国々の人々との交流があり、本当に楽しくって、もっと語学の勉強がしたくなった。帰国してから、英語の勉強をして資格もいくつか取り、最近では、英語によるピアノのレッスンも始めた。

語学を学ぶことで、いろんな価値観に出会い、世界の国々の人とつながり、シンプルな言葉でも、お互いに気持ちを伝えることができる。

音楽と言葉で世界の人とつながるって、素敵なこと。

これからも楽しみながら、一緒に学んでいきたい。

 

◆田村 晃子(上達のためのピアノレッスン)

 

『リハビリのためのピアノ』

右手の親指が曲がったまま開かない状態で生まれた私は、赤ちゃんの時に、右手親指の付け根の切開手術を受けました。赤ちゃんで手術となると、親も大変心配したようで、成功するよう祈る思いだったようです。手術は無事成功し、指のリハビリとして、3才の時に両親が習わせてくれたのがピアノでした。指が正常な状態で生まれてきていたら、ピアノとの出会いもなかったかもと思うと、不思議な感じがします。

 

『引っ込み思案な子どもだった』

 性格は地味で引っ込み思案。母がイライラするほどのレベルで、輪の中に入れない、人前で話すのが恥ずかしい、人の目が気になる、おまけに超マイペースでのんびり、こんな性格だったため、自分でもかなり遠回りをしたなと思います。その一方で、ピアノ、お琴、空手、そろばん、習字、絵画など、習い事は、楽しく、どれも充実したものでした。

 絵画は、最初は水彩画だったのですが、小学校高学年になると、油絵に初チャレンジ。半年ほどかけて自分の身長を超えるキャンパスと格闘し、大きなキャンパスすぎて、私だけ別室に隔離され、先生に油絵のイロハを教えていただきながら、もくもくと絵を描いた結果、受賞したとの報告。京都美術館に展示していただくという忘れ難い経験をさせていただきました。

 

 

『ピアノと空手』

 中学に入るころ、勉強も徐々に忙しくなり、習い事は、ピアノと空手のみになっていました。自分の中では、どちらも捨てがたいので残ったのだと思いますが、ピアノは、先生の教え方が素晴らしく、コンクールで度々優勝させていただいたり、難易度の高い曲を弾くことに喜びを感じたり、自分の生活の中でも、価値のある物になっていました。

 その一方で、空手も指導者や仲間に恵まれ、体力的にはキツかったものの、空手の大会に出場しては、トロフィや盾をいただいたので、通算30個ほどになり、これもまた捨てがたい。ピアノの先生に、空手をやっていて、板を割ったり、瓦を割ったり、冬の海に入って合宿しています。なんて言ったら、気絶されるのではないかと、ひた隠しに隠していたのですが、小学6年生の時に全国大会で優勝をしてしまい、新聞に掲載されるという、予想外の展開になり、即効バレてしまいました。その時の先生の顔を今でも忘れません。

 

 

『人生の岐路。究極の選択』

 中学に入る前、将来何になりたいか?自問自答するようになりました。ケーキ屋さん、お花屋さん、デザイナー、学校の先生、など候補にあがったのですが、どうもしっくりこない。やはりその時頑張っていた、ピアノか空手のどちらかだと思うようになっていきました。

 でも、正反対といって過言ではない究極の選択。どちらにも決めかねる日々が続きました。その時、空手は昇格試験を受けていき、二段になっていましたので、自分の中では空手が優勢な感じ。海外に行って、空手を教えて広めたりが出来るかなぁ~なんて漠然と。

 そんな時、転機が訪れます。ピアノの先生が、「晃子ちゃん、4才年上の○○さんが、音大を目指すことになったため、私の先生のとこなんだけど、毎週鳥取に通うことになったから、一緒に習いにいきませんか?」 先輩のお供として、、、考えてもいなかった展開に、戸惑いましたが、先生の先生ってどんな人なんだろう?どんなレッスンなんだろう?興味はふくらむばかりで、ついに片道2時間の鳥取へ通うことになったのです。

 そうして、ピアノの道に自然とシフトするようになり、空手のように年がいって体力が落ちると、指導がしづらい空手よりも、年をとっても出来るピアノの先生の方を選択していきました。

 

『落ちこぼれの日々』

  先輩はとてもユニークな人。週末の電車は、いつも楽しかったと記憶していますが、本題のレッスンについては、いつも叱られてばかり。練習嫌いの私にとって、鳥取という存在は、重く遠い場所でした。そんな中、武蔵野音楽大学高等学校を受験したのですが、結果は不合格。今度は地元の高校に通いながら、武蔵野音楽大学を目指してリベンジすることに!

  今度は月に1回、夜行列車に乗って、東京に通うことに。ここでも更に厳しいレッスンを受けることになりました。

 

 

『無事に合格!』

  東京の坂井玲子先生、鳥取の西川妙子先生、豊岡の服部京子先生、この3名に習い、どっぷりピアノの世界はまり込みました。練習嫌いの私が一番頑張ったのは、武蔵野音楽大学の受験の時。

  当時、勢いのあるこの音大に絶対に受かりたい!後悔したくない!7時間から8時間の練習。その為に、先生や両親、多くの方に協力していただき、無事に合格!!その時の感激は、今でも忘れられません。

 

『大学時代の私』

  大学生活は、東京に対する憧れもありましたが、初めて親元を離れる不安もあり、色々な思いが混在するものでした。私の先生は、皇居で演奏をされるような先生。レベルの高いアドバイスをこなしていくのに必死でした。

  寮は4人部屋。寮の地下室は、ピアノの練習の為、たたみ3畳ぐらいの個室が40部屋ぐらいあり、どれだけでも練習が出来る環境。一方でバイトや他大学のサークルなど、伸び伸びと大学時代を過ごしました。

 

 

『卒業後の道』

 22才、音大卒業後、父の勧めもあり、地元に戻ってきたものの、何をどうすれば良いか、両親も音楽とは無縁でしたので、相談する方もなく、選択肢として楽器店に勤める方が、何かとスムーズに事が運ぶのではないかと思ったのですが、自分の理想や教え方を100%生徒に伝える事が出来るのは、やはり独自に教室を立ち上げる道ではないかと考え、心細い気持で、自宅の8畳1間で「田村晃子ピアノ教室」を開設。

 

 

『ピアノ教室の船出は不安がいっぱい』

最初は、知り合いの子供さんが生徒でした。すぐに生徒が増えるはずもなく、とても暇な毎日でしたので、20代は習いごとにいそしみました。茶道、華道、料理教室、マナー教室、着付け教室、資格マニアの私にとって、大変充実した日々だったのは間違えないです。

 

 

『一大決心』

28才の時、「田村晃子ピアノリサイタル」を豊岡市民会館文化ホールで開催すると。大きな大きな一つの目標を決めました。しかし1時間30分のプログラムを練習する以外に、広報、チケットの手配など、全て手探り状態の中でした。無名な私が、1100名のキャパシティの会場で単独でピアノリサイタルを開催するなど、誰が応援出来るでしょうか。しかしやると決めた以上、周囲からの猛反対も押し切り、プレッシャーの中リサイタルを決行。

 中には義理でチケットを購入して下さった方もあるでしょう。そんな方々が、当日会場まで足を運んで下さるのか?不安な毎日を過ごしました。胸が押しつぶされそうな本番前、恐る恐る舞台そでから、こっそり客席を覗いてみました。驚くことにほぼ満席。夢か幻。涙がこみ上げてくるのをこらえるのに必死でした。お客さまが帰り際に、憔悴した私に対しての励まし、感想、労いが心に染み入り、感無量とは、この事を指すのだと思いました。

 

 

『もうひとつの夢』

ピアノリサイタルをいう夢が叶って、2年が経った頃、私の中にふつふつと湧き出てくる想いがありました。それは料理教室で料理を作ることの楽しさ。素材を調理して、料理が出来る工程が、とても楽しく、もっと知りたい!もっと知りたい!と料理本を買いあさり、研究の日々。こういうのを趣味と呼ぶのでしょうか。父が糖尿の病気も患っていたこともあり、料理のカロリーも独学で計算をするようになっていましたが、ふと、栄養士の資格を取りたいと。これが、もうひとつの夢です。

 一番近くで栄養士の資格が取れる場所を探した結果、自宅から車で1時間半のところにある短期大学に社会人入学をして、フレッシュな学生と交じってとっても刺激的。毎日ビッシリの授業を受け、夕方からピアノ教室をするハードな日々でしたが、私にとって有意義な2年間でした。

 

 

『幼児を教えるためのスキル』

 ピアノは早期教育が大切と言われていますが、幼児を教えるためには、幼児のことをしっかりと勉強しないといけない。そんな時に、リトミックを知り学ぶことにしましたが、リトミックの資格にはランクがあり、大阪校に週2回、2年間通うと、ディプロマAという最高資格が取れるということで、これも通うことにしました。ここでは、一生の友達もでき、楽しく忘れられない思い出でした。

 リトミックは、教えるスキルはもちろんですが、自分の演奏にも変化が出てきて、リトミックはピアノの基盤として最適なのだと、身をもって体験することが出来たのは良かったです。

 

 

『指導者として、経営者として腰をすえる』

 ピアノリサイタルを終え、少なかった生徒もおかげさまで80名近くに増えたのを機に、銀行から融資を受けて、平成14年、34才の時に新しい3階建ての教室を建てることにしました。まだ若かったのですが、私にとって巨額の融資を受けるという事は、責任と覚悟、逃げることが出来ない決断をしたなということでもあり、指導者として、経営者をして腰をすえるきっかけとなりました。

 その後はピティナ・ピアノコンペティション豊岡予選を開催、ピティナ・ピアノステップ開催、地域で初となるピティナ指導者賞を2007年より連続受賞、ショパン国際ピアノコンクール in ASIA 審査員、ピティナ審査員として全国で活動をしたり、生徒を全国大会受賞へ導くなど、地に足をつけてコツコツと日々を過ごし実績を積んでいきました。

 

 

『学院を設立するための準備』

 生徒が100名近くなった頃は、驚異的な忙しさ。生徒が来て下さる事は嬉しいのですが、もし私が病気になったら、私がもし衰えていったら、と考えるようになりました。

 講師を雇うことや、ピアノ以外のコース増やして、学院を設立したいと思い、準備をすすめていきました。

 

『ベビーマッサージの資格を取った理由』

  ピアノを始める年齢は、様々ですが、習いに来られる時には、性格や思考、親子の関係など、すでに決定づけられていることも多い。人が成長する上で、大切な年齢って何才なんだろう?もっと早くに何かお伝え出来たり、もっと早く力になれるといいのになぁ。と考えるようになり、東京まで、ベビーマッサージの資格を取りに通う事になりました。

 ベビーマッサージの勉強は、とても神聖な印象。けがれのない真っ白な状態の赤ちゃん。ここから人がこれから育っていく最初の部分に関わることが出来る幸せを感じました。

 

『英才教育の資格を取った理由』

 私は、コンクールや音大受験など、上達したい方を教える機会が多かったため、何とかその願いを叶えてあげたいと、とにかく自ら出来る勉強はしていきましたが、ピアノの上達には、人間の高度な能力をフル稼働という感じです。

 ピアノの上手い子=勉強の成績優秀 という図式がありますので、IQを高くする教育を勉強したいと、東京に資格を取りにいき、日本のトップクラスの小学お受験などの授業にも参加して、最先端の指導法を学んできました。

 

『いよいよ学院設立!』

 これらの私が学んだ資格を元に、ベビーマッサージコース、英才コース、などを作り、私が引退しても、建物や指導法は残るようにと、また地域にに対して、当方でしか出来ないオンリー1の貢献をする目的で「一般社団法人 豊岡教育音楽学院」を2010年に設立。地域にこのような学院は過去に例がないため、講師の先生方にも多大なご尽力をしていただき、思考錯誤を重ねながら、現在の形となりました。

 

『一隅をてらす』

子供の頃の性格を考えると、今の自分は、本当に別人のようです。34才の責任と覚悟。これが今の私を作った核の部分だと思えてなりません。常に前を向いて、障害を乗り越えるうちに、自分という人間は少しずつ変化していったのだと思います。今まで乗り越えてきた経験全てが、私の血となり肉となり、財産となっているような気がします。私という人間を作って下さった全ての方々に感謝するとともに、今後も可能な限り、チャレンジ精神を忘れず、人のお役に立てるよう切磋琢磨していきたいと思います。